JOHAニュースレター第9号

第4回大会
熱気に満ちた議論で盛況のうちに終える!
http://joha.jp/?eid=62

 「戦争と植民地期」をメインテーマとした「第4回日本オーラル・ヒストリー学会大会」は、9月23日(土)、24日(日)の両日にわたって東京外国語大学で開かれました。シンポジウムではオーラル・ヒストリーの方法論に関する包括的な議論と戦後60余年を経た現在における画期的な実践例が紹介されました。また、一般公募で参加された若手研究者の方々から意欲的な研究成果が報告されました。大会で提起された議論は、学会誌や様々な機会を通じて、今後一層深まっていくことが期待されています。
 来年度の大会は2007年9月に日本女子大学目白キャンパスで開催されます。会員の皆様の公募報告への応募をお待ちしています。詳細はおってお知らせしますが、次回大会での報告応募の締め切りは2007年3月末の予定です。
 また大会で行われてきた研究実践交流会の継続的開催への要望が出されましたので、今週末11日に急遽「秋季実践研究会」を開催することとなりました。皆様ふるってご参加ください。

【目次】
Ⅰ 大会報告
1.シンポジウム
2.A History と the history
3.第1分科会
4.第2分科会
5.第3分科会
6.第4分科会
7.実践交流会報告
8.総会議事録

Ⅱ 海外の動向

Ⅲ 秋季実践研究会および第3回実践講座
1.JOHA秋季実践研究会開催のお知らせ
2.第3回オーラル・ヒストリー実践講座の開催について

Ⅳ 第5回大会自由論題報告募集

Ⅴ 学会誌第3号公募論文募集

Ⅵ 入退会について

Ⅶ 理事会報告
1.第1回理事会
2.第2回理事会
3.第3回理事会

Ⅷ 事務局便り

Ⅰ 大会報告

1.シンポジウム「戦争・植民地期」について(中尾知代)
 「戦争・植民地期」を主題にし、場所を東京外国語大学で、と決まったときから、私の苦吟は始まった。本テーマは、JOHA第1回目大会に伊藤隆・荒井信一とその他諸氏に戦争の分科会にお話頂いたときから、一度は大会メインテーマにしようという案はあった。
 JOHAではどういう特色を出せるのか。全国の、戦争に関わる聞き取りをしている団体やグループ、個人は、調べ始めると数限りなくある。 誰をパネリストにするか、悩みはつきなかったが、個別応募者の中から
(1)オーラル・ヒストリーと歴史学とのクロスセッションの観点から、中村政則先生に登壇いただくことにした。
(2)元兵士が若者と戦争体験をビデオで保存するボランティア運動を続けている「放映保存の会」に、<民間活動>と<戦争経験の継承>という点から参加を願った。
(3)さらに、以前から関心をもっていた、「島クゥトゥバ」で沖縄戦争体験を記録している比嘉さんに、母語でなくては話せぬ内容と、植民地―被非植民地の観点からお話をお願いすることにした。
 「戦場体験放映保存の会」では、2人の元兵士の方から、「なぜ、自分たちが語り残さねばと思ったか」「無色ということ」についてのテーゼが語られ、事務局を勤める中田さんから、現在の活動の内容と、全国に広げ展開したいというビジョンが語られた。続いて中村政則氏は、歴史学者としてこれまで続けてきたオーラル・ヒストリーを、<八路軍に留用された日本女性>、らい者と診断され、死を命じられた看護婦仲間を死なしめた女性の語りについて話された。中村氏はまた、聞き取りの中であらわれる、人間が人間でなくなる瞬間・人間に立ちもどる瞬間や、あるいは「常識では信じられない現象」をどう解釈するのか、という問いかけをした。発表される横で聞いていると、中村氏自身も、戦場体験放映保存の会も、聞き取り相手について語っているときは、「語っている人」の声や表情が蘇るのか、そのライフストーリーの中に、引き込まれていってしまう感覚だった。
 本来は第二番目に登壇するはずだった比嘉氏だが、映像DVDが機械と合わず、第3番目に登壇いただき、映像もビデオ装置になったので、せっかく今回村山元子さんに編集頂いたというDVDが字幕までクリアにみられない聴衆もおり、その点、申し訳なかったと思う。比嘉さんが、どこかで居づらそうにしている感覚はあったのだが、この理由は後からメールのやり取りで、明らかになった。比嘉さんは「無色」ではなく「侵略色」があるではないか、と立腹していたというのである。(その後、戦場体験放映保存の会とのディスカッションもしばし継続した。詳細は次号のジャーナルでより明晰に整理されると思う)
――戦争の体験を、語ったり、継承するときに「無色」というのはありえるのか。比嘉氏は、沖縄のおじい、おばあの体験は、いろいろ聞き取っていけば「無色」に近づくと思う。しかし兵士の聞き取りはいくらやっても「軍事色」ではないか、という。一方、戦場体験放映保存の、<無色>は確かに複雑な概念だが、日本では、戦争体験を語ったり、解釈するかで、<色つき>と烙印をおされる、だから、ありとあらゆる立場の人を集めたい、そして聴く側は、中立でありたい、という立場から<無色>という言葉を使う。「無名」は金儲けや、この活動で名をあげるのが目的でないという宣言だという。
 だが、やはり沖縄戦の体験を数多くきいてきた比嘉さんに、「色」というのは、侵略色という概念が先にくる。懸命にかたる日本元兵士の声も、彼には一方的に聞こえただろうか。
 敬老の日の直後だから黙っていた、そうだ。(おじい・おばあに対する尊敬の念は、沖縄で強いといわれる)比嘉さんは、沖縄の話を数多く講演しているが、実際に「日本軍人」「日本兵」と並んだのは始めての体験なのだった。比嘉さんによれば、こういう風に日本兵に語られちゃ「おばあらがこれない」のでDVDが写らなかった、とマンタリテ的に解釈されている。これに対し、元兵士の方は、もっともっと比嘉さんと膝をつきあわせて話したかったと述べておられた。比嘉氏は、その意見は「映像がすべてを語ってくれる」と思っておられ、沖縄の島クトゥバがわかる参加者は、彼女たちの表情をみて「チンムドゥンドゥン」{ 心がもりあがりどきどきする} した、という。沖縄体験も、被害だけでなく種々の側面が選ばれていたので、島クトゥバを聞いているだけでも、伝わるものは大きかったが、やはり大スクリーンのほうがベターであったろう。
 本シンポジウムの主題は「戦争・植民地期」であったので、今回の人選は、まさに日本最初の植民地である<琉球王国>の方を組み合わせは、「島クトゥバ」でしか語れない母語の問題とともに、植民地―宗
主国側をテーゼ化したかったからだ。だから、言葉としてディスカッションにはなりえなかったが、このコロニアリズムの緊張関係そのものがシンポジウムに現前していたことになる。
 今回は、歴史学とオーラル・ヒストリーのみ、戦場体験の継承のみ、植民地問題に絞るという、選択もありえた。だが、各問題は種々の研究会で行われているので、あえて風呂敷を広げてみた。今後はそれぞれに浮かび上がる問題を、さらに続けて、論じ続けることができれば、と願う。細分化されたところでは其々の結論になる。だが今回は、せっかく幅広い場としたのだから、このような「出会い」をもとに、今後も継続・発展・展開してくれることを心から望んでいる。

2.A history と the history(中村政則)
 今回、JOHA(日本オーラル・ヒストリー学会)に初めて参加した。全体で30近い報告と討論があって、密度の高い学会であった。20 代、30 代の若い研究者の報告が多く、テーマはバラエティに富んでいた。オーラル・ヒストリーそれ自体の若さと可能性を示していたように思う。以下、私に対する質問に答える形で、参加記を記したい。
 Ⅰ 個別報告は、一人当たり報告時間が 20 分、討論20分で、誰もが時間不足を感じていた。試みに、ある大学院生に学会で ①報告時間30分にして報告者を制限する、②申し込み者全員に報告してもらうが、報告時間は20分にする、のいずれが良いかと聞いたら、
その院生は「せっかく申し込んだのに、落とされるのは嫌だ」といって②「申し込み者全員に報告させる」を希望していた。私としては①のほうを望むが、その代わり「落ちた人」は次年度大会で優先するなどの措置が必要であろう。シンポジウムでの持ち時間は1グループ報告時間40分、残りが討論時間だが、一発表者の持ち分は20分となる。3つの報告があったので、これだけで3時間、時間配分はこれが限度だと思うが、討論時間があまりに短く、フラストレーションを起こしていた参加者は多かったに違いない。それにしても「戦争・植民地期」というテーマ設定は(時宜をえて)タイミングがよく、多くの報告希望者を惹きつけた。全体として、今大会が成功したのは、そのためである。
 Ⅱ 私の報告に対して5枚ほどの質問用紙が回ってきたが、答えることができたのは、わずか1つ(マンタリテの問題)に過ぎなかった。どんな質問があったかを紹介すると、1.「<戦争体験>と<戦後体験>が切り離しえないことはわかる。同様に、<戦前体験><戦中体験>とも切り離しえないと思われる。オーラル・ヒストリーはライフ・ヒストリーにもつながっていると思うが、どうか」。そのとおりだと思う。だから最近は、ライフ・ヒストリーの実践報告が増えてきたのであろう。2.「ナショナルな歴史と個人の記憶をいかに接合していくことが可能であると思うか」という質問である。これは様々な工夫が重ねられてきている。私は主として文字資料(手紙、報告書、回想記など)を使ってきたが、沖縄戦のことを調査中の現在、自治体刊行物が意外と役に立つことを知った。3.「報告者は、極限状況で組織・人間の本質が露呈するといった。だがもう一つ、極限においては、人間は意に反する行動をとってしまう、とらざるを得ない」面があると思うがどうか」。そのとおりだと思う。とくに戦争では「上官の命令で」敵国や植民地の人々を殺したり、場合によっては、味方の人間を背後から射殺した事例がある。ここにこそ戦争の残酷さがある。私が「人間の本質」だけでなく、「組織(軍隊・官僚機構など)の本質が露呈する」と書いたのは、そのためであった。4.レジュメに「事実 fact、現実 reality、真実 truth の関係」とあったが、どのように使い分けているのか、という質問があった。
 Ⅲ これが一番の大問題で、ここで満足のいく説明が出来るわけがないが、次の一点だけを述べておきたい。私はドイツ近代史研究者の西川正雄氏にならって、歴史には the history と a history があると考えている。たとえばベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは A History of Europe という書物を書いているが、これはあくまでもピレンヌが書いた歴史(a history)であって定番の世界史(the history)ではない。したがって歴史には「存在としての歴史」と「ロゴスとしての歴史」あるいは「事実としての歴史」と歴史家により「書かれた歴史」の二つの意味があると考えていいだろう。歴史家は何があったか(事実 fact)を確定することに全力をつくすが、それが私達にとって何を意味するかの解釈(現実 reality)は様々である。だが解釈は複数あるといっても「何でもあり」ではない。解釈にはリミットがあるのだ。「歴史の真実に迫る」という表現があるように研究者は、様々な手段・方法を使って the history に迫ろうとしているのである。しかし邪馬台国論争のように100年近く論争しても結論が出ない場合もあれば、下山事件のように迷宮入りの事件もある。このようなとき人々は「真実 truth は神のみぞ知る」というが、それでもなお真実を求めて人々は追及の手を緩めない。
私は歴史家なので、客観的に実在する過去はあると思っているが、“言語論的転回”以後の論者の中には、そんなものは存在しないと考えている人もいる。つまり歴史家が依拠する史料は、事実というより表象の所産であり、人間が言葉を与えて(認知の枠組みにいれ)言語的に認識した時にのみ、事実(の意味)は浮かび上がってくる、と主張する人もいる。オーラル・ヒストリーを実践する場合にも、この問題は核心部分をなすので、私はあえて言及したのである。最近、私は語り手が「うそ」を語ったとしても、それを虚構として排除しないで、なぜ「うそ」をついたのか、その意味を探ろうと思っている。しかし、「うそ」からスタートしてもいいが、「結局、事実・真相は何だったのか」の問題に行き着くようにおもう。やはり私は“歴史家”なのだろうか。なお興味のある方は、拙稿「言語論的転回以後の歴史学」『歴史学研究』2003年9月号を参照されたい。
 今後も、オーラル・ヒストリーの技術上あるいは理論上の問題をめぐって、多くの方々が議論に参加されることを願っている。

3.第1分科会 「戦争体験のナラテイブ 語ること/語りえぬこと」(早川紀代)
 この分科会ではつぎの6報告がおこなわれた。高山真「「被爆体験」を語ることー長崎の証言者によるライフストリーを手がかりにー」、八木良宏「調査者ー被調査者の関係とその射程―原爆被害者へのインタビュー調査・研究よりー」、張嵐「中国残留孤児の帰国動機―動機の語られ方をめぐってー」、山田陽子「「生き残りの兵士となった」身元引受