JOHA9 第4分科会要旨

(1)酒井朋子(東北学院大学)
移行期社会における記憶と歴史:和平条約後の北アイルランドにおける
 本報告は、長期間継続した紛争に一定の区切りが打たれた後の、移行期社会におけるライフ・ストーリーに注目するものである。揺れ動く政治的・歴史的言説との緊張の中で、個々人の人生物語やマクロな歴史観が再編されていく様子を、イギリス領北アイルランドの事例から見ていきたい。
 報告の中では、過去の政治暴力にまつわる新しい事実や情報が明るみに出され、また社会的に分断されてきた民族集団間の和解が目指される中で、人びとが自分や近親者の体験、および家族史をまったく新しい方向から理解していく(していかざるをえない状況に立たされる)語りを紹介する。また、何が社会における支配的価値観であるのかという前提をめぐる争いに、人びとが個人的な体験談を語ることを通じて参与していくことについても、同時に議論していきたい。

(2)水谷尚子(中央大学兼任講師)
在外ウイグル人への口述史収集をめぐる諸問題:中国新疆からの政治亡命者・経済移民者を訊ねて
 ウイグル人は中華人民共和国領域内に約900万の人口を有するテュルク系民族で、新疆ウイグル自治区に集住し、漢民族とは異なるコーカソイド系の容姿を有する者も多く、イスラームを信仰し、中国とは全く異質の文化圏を中央アジアと共有している。彼らは20世紀前半に幾度か独立国家を建設する動きを見せたものの成功せず、現在は中国領域内の「少数民族」として生活している。筆者はここ数年、中国の支配に抗して政治的問題を抱え、領域外に政治亡命したウイグル人を中心に、中央アジアやトルコ、欧米などで口述史収集調査を行ってきた(文春新書『中国を追われたウイグル人 亡命者が語る政治弾圧』等)。その過程に於ける諸問題や、彼らの口述史が歴史学的には如何なる意義を持つのか、論じたい。

(3)吹原豊(福岡女子大学)
滞日インドネシア人社会の成立と現況:当時者および関与者の語りを中心に
 茨城県東茨城郡大洗町(以下、大洗町)には、2010年5月31日の時点で18,323人が居住しており、そのうち381人がインドネシア人である。大洗町への外国人労働者の流入には時代による変遷が見られるが、インドネシア人の流入は1992年に始まり、現在では研修生を中心とする中国人労働者と勢力を2分している。特にキリスト教会を中心とするネットワークを持つインドネシア人社会の中では歴史も古く、「日本においての故郷である」との声さえも聞かれる。
 本報告では主にインドネシア人移住労働者が同町に流入することになった経緯を当事者であるインドネシア人社会の成員たちによる文章、語り、関与者の証言をもとに明らかにする。そして、その後の展開と現況について問題点にも言及しながら紹介することにする。

(4)山口裕子(一橋大学大学院)
歴史語りの「真実さ」をめぐって:インドネシア東部の小地域社会における複数の対抗的な「ブトン王国史」
 インドネシア東部の旧ブトン王国領における位階の異なる村落社会――王族貴族の子孫からなるWと平民のB――では、今日、生活の様々な機会にブトン王国史を語る。W人の語りは中央政府から評価されて公定史として出版され、今日の慣習復興の諸動向の中では地域を代表する歴史として提示されている。これに対しB人は自村こそが王国の本当の起源地だったとする「真実の歴史」を語っている。近年の歴史研究は、対象社会に併存する複数の異説のあいだの「ほころび」に対して、一方では実証主義を洗練させることで、他方では「ほころび」を包摂する同時代の社会状況そのものを探求する方法で接近してきた。これらの方法は、W人とB人の語りの「実証性」や、両者の非対等的な関係性についてある程度説明してくれる。だがそれぞれが自らの語りの「真実さ」を実感するのはいかにしてかという問いを説明してはくれない。本発表ではこの問いの答えを、語りの舞台となるW村、B村の生の時空間の中に探る。